子供の頃、この話を聞き私は耳をふさぎ泣いていたそうです。
去年帰省した際もう一度ちゃんと話を聞きたかったのと、私の子供にも聞かせたかったので祖父に願い再度、話してもらいました。

これは祖父が旧制新潟高等学校への受験を控え、兄弟のいない仏壇部屋で、受験勉強をしていた時の話です。

ある日の夜半、受験勉強をしていると後ろの方がザワザワするのですが振り返ってみると何も無い。
受験勉強をするとまたザワザワする、振り返えると何も無い、何度も繰り返すうち「勉強の疲れによる精神作用」と判断した祖父は、気にしないことに決め勉強を続けました。

しかし次の日も次の日も同じことが続きます。
果ては、休養日と決め早寝遅起した日の夜にも・・・。

さすがに気味が悪いが他に勉強が出来る部屋が無く、仕方なしに仏壇部屋での受験勉強を続けることにしました。
でもその日は、何かの恐怖心に勝ちたく、仏壇部屋の押入れにしまってある日本刀を勉強台の脇に置いておくことにしました。
この刀は、祖父の叔父が、日露戦争に従軍した際持って行き五体満足で除隊出来たと言う刀で曽祖父が大事にしていた刀でした。

その刀を脇に置き勉強を開始しました。
12時を過ぎた辺りから毎晩続くザワザワ・・・。

鞘ごと掴みサッと振り返るとそこには、5人の武士が鎧を身に着け車座に座り、車座の真ん中で鎧を着た一人の武士が舞を舞っているようでした。
6人ともどこか怪我をしていて舞を見つつ泣いていたそうです。

舞が終わり順番に何かを言った後、自害して行き、6人とも自害した後いつもの仏壇部屋に戻っていたそうです。
体が自由になった祖父は、曽祖父を起こしに行き一部始終を語りました。

曽祖父はまず「そういうことも有る」と言い、「刀とはそういうものだ」とも言ったそうです。

後日、曽祖父本家と分家総出で新潟市のある寺に行き供養を済ませ、刀も寺に置いてきたそうです。
刀の由来は、高祖の父(祖父の曽祖父)が西南戦争に警視庁抜刀隊の隊員として従軍した際持ち帰った刀で有ることから明治以前のことは分からず、刀については、曽祖父と祖父の叔父が残念がっていたそうです。