10年ほど前になるが、一人で山登りして下山する途中のこと。
突然の雨に足止めされて、でかい木の下で雨宿りをしていた。
食べ残しのおにぎりを食べながら、ボーッとしていた俺のすぐ近くで、人の声が聞こえた。

見回したが、誰もいない。

気のせいかと思ったが、雨音に混じって「左ぃ・・・左ぃ・・・」と聞こえる。
薄気味悪いので無視していると、雨が小降りになってきた。
逃げるように木の下から離れたが、去り際に自分のいた左側をチラリと確認。
そこには、特に何も無かった。

登山口に着いた頃には、気のせいだったと思い始めていた。
妙に腹が減ったので、近くの飲食店に直行。
客は俺以外におらず、時間的にも店が閉まるギリギリくらいだったと思う。

天丼大盛りと蕎麦を注文したが、店員の様子が少しおかしい。
閉店前にKYだったかと思っていると、厨房から男性が2人出て来た。
料理は持っておらず、年配の男性の方が開口一番言った。

「あんた、何して来た?」

?という顔をしている俺に、もう一人の中年男性の方が尋ねる。

「山で何か変なことなかったか?」

俺は木の下で聞いた声のことを、最初に思い出した。
そのことを話すと、2人は納得した様子で厨房に戻って行った。

しばらくして、注文の料理+山菜の定食みたいなものが運ばれて来る。
不思議に思ったが、ペロリと完食した自分にも驚いた。

食事を終えた頃、ヨボヨボの婆さんが来店。
客かと思っていたが、再び厨房から年配の男性が来て、俺の方に婆さんを誘導した。
何事かと思っていると、婆さんは俺に向かって何やら祈祷をして、最後に背中を思いっきり叩いて店を出て行った。

物凄い衝撃だったが、その割に痛みは感じなかったのを覚えている。
ただ、満腹感もあってか、しばらくは動けず声も出なかった。

当然ながら、婆さんを店先で見送った年配の男性に、一連の出来事について尋ねた。
どうやら、俺には何かが憑いており、それがパッと見て分かったらしい。
正体は分からないが、『それ』は強い飢餓感を持っているのだという。

かなり昔から存在しており、婆さんはそれ専門の祈祷師みたいな役だった。
憑かれた奴の大半は、山中のお堂で悪さをした結果らしく、俺のようなケースは結構珍しいものなんだとか。
『左ぃ』ってのは左方向ではなく、『ひだるい』という方言だった。
ひもじい、腹減ったという意味。

食事代は無料だった。
本来なら、注文分だけで2000円くらいだったのでラッキーだった。

それから、約半年後。
俺は再度同じ山に登った。
教えられたお堂の場所に食べ物を供えて、軽く御祈りして下山。
別に勧められたわけではなかったが、なぜかそういう気分になって行った。
登山口の同じ店で食事に行くと、向こうも覚えていたらしく、俺がお供えをして来たと言ったら、食事を少しサービスしてくれた。

それ以後、半年~一年の周期で変なものを見るようになり、それを機に登山に行くのが習慣になってしまった。

最初に見たのは、俺の部屋に漂っていた『もや』。
煙よりも薄かったが、明るい中でもハッキリと見ることが出来た。
『もや』の中に、山水画のようにお堂の風景が浮かんでいたので、またお供えをしに来いという、催促の合図なのだと思った。
大抵は『もや』の形だが、一度だけ人間の形で来たことがあった。

その日は父親の葬儀が終わった日で、親族が帰ってやっと一段落着いた頃、妙に喉が渇いたので台所に行った。

家の台所と居間は繋がっていて、グラスに水を注いでいると、居間の方から視線を感じたので顔を向けた。
居間には和服の女性が一人座っており、その後ろに大勢の男性が並んで座っていた。
それほど広くないフローリングの居間だったが、男性は数十人いたと思う。

居間の奥行きがその部分だけ広がっているような、錯覚じみた光景だった。
目が合うと、女性が最初に深々と頭を下げて、男性も全員それに続いた。
グラスの水を一口飲むと、全部消えていた。

消えた後に『もや』が少し漂っていたので、お堂関係だと思った。
さすがに、それからすぐお供えに行く訳には行かなかったが、半年程して山に行った時に、なんとなく思い出していると、お堂の中から何かいい香りがして来て、誰かが中にいる気配がした。
少しびびって確かめられなかったが、悪い気配では無かったと思う。

女性は赤地に金刺繍の立派な服を着ていたので、偉い人かも知れない。
男性は全員黒っぽい服を着ていたが、マゲは結っていなかったので、侍などでは無い気がする。
昔の人の雰囲気はあったが、いつの時代かと言われると分かりかねる。