私共の地元では山を神聖視した土着の自然信仰が行われています。
現在廃れて来てはおりますが、それでも老人方は信仰すると共に畏怖、畏敬の念を絶やしません。
それには理由がありまして、昔私共の地元では、口減らしと共に姥捨が行われていました。

しかしながら、姥捨とはもうしましても他所とは若干考え方を異にしています。
地方によって呼び方も変わると申しますが、私共の土地では「山還り」「山還し」と呼んでいたそうです。
今でも私共と老人方、信心深い方は同じように考えておりますが、「人は死ぬと山に還り、そして山、土地と一つになる」と、このように考えておりました。
その為、不作等か続くと労働力の低い老人方に子供が、「山に還ってくんねぇか」と、こう言うわけです。

すると多くの老人方は「分かった。山に還ったら、うちの畑が肥えるようにするからな」と返し、同意して山に当時の私共や、今は絶えてしまった私共と同じ山に連なる方々・・・ササギと共に入るわけです。

無言、無言、無言。
静寂こそ美徳。

そのようにしてただひたすらに山へと登ります。
しかし、それも山の七合目に入ると、ササギの者が山に礼をした後、老人に聞きます。

「早く還るか」

これに「はい」と答えると、ササギの者は老人を殺し、その遺体を私共が埋葬します。
その後祈りと敬い、崇拝と感謝、謝罪を込めて頭を墓に二度下げ、山の頂きに三度下げて帰ります。

しかし、「山を見て歩きたい」と言われると、これ以上は登らぬようにと厳重に注意します。
その後、「村の為に良い影響を与えて下さい」と私共とササギの者が老人と山に祈り、老人を置いて山を去ります。

お気付きでしょうが、その当時の老人方は、納得した上で、いえ、むしろ喜々として死んで往きました。

さて、老人を山に還した家では、大方様々な幸運が起こります。
畑が肥える、病が急に治る、神通力がつく、といった具合です。

しかし・・・昔、感謝を忘れ、これに目がくらんだ者が居たそうです。
自らの母が山に還り、残った父を山に還そうとしたそうです。
その男は父に山に還るように言いますが、父は頑として首を縦に振りません。

父「今はその時でない。おれが還るのはまだ先だ。あいつは言った。わたしが還ったら畑を見てくれ。荒れてしまったらあなたも還って二人で肥やしましょう」

男は納得できず、ある晩父を殴りつけて口を聞けなくし、縛り付けて山に向かいました。
言葉を喋ってはならぬと当時の私共や他の山に連なる方々に聞いたのでしょう。
無言で登り続けます。

七合目に差し掛かり、男は父を殺して埋めようとしましたが、ここでは私共にばれてしまうと考えたのでしょう、頂上まで行くことにしました。

八合目を越えると、虫の声が聞こえなくなりました。
九合目を越えると、風が止みました。

そして頂上・・・。
男は父を殺そうとしますが、父を殴り続けるにつれて殺すのが怖くなり、父を縛り付けたまま四肢の骨を折り、村に帰りました。

しばらく経つと、男の畑が枯れ、男は病に倒れました。
身重の妻が、二年経っても子を産みません。
仕方なく子堕ろし婆を呼び、子を堕ろしました。

堕ろした子には四肢がありませんでした。
その子の顔は、しわくちゃの顔をしており、そして・・・男の顔を睨み、叫びます。

「畑が荒れた。次はお前が還る番」

男は当時の私共とササギの者に連れられ、山に還りました。