これは僕が高校を卒業して半年位、フリーターやっていた頃の話です。

その頃、僕はある肉加工工場の夜勤パートをしていました。

僕は自転車で一時間かけて隣の市である職場に通勤していました。
夜勤、確か23時半からの勤務だった為、通勤は苦ではありませんでした。

朝からだったら出来なかったと思います。
そして・・・その日は真冬で月の綺麗な晩でした。

いつものように22時頃家を出て、坂を上って大きな道路を通り、途中道路脇に慰霊碑みたいな物があって花がそえられている場所とそことは別に、交通事故があったのか、やっぱりそこには花がそえられていました。

夜中で車の通りもあまり無く、不気味といえば不気味でしたが、そこでは何もありませんでした。

さて職場まで後少しと云う所。
そこからは住宅街の離れの狭い通りに入って、途中ラブホテルがあるんです。

その前を通った先が職場。

恐ろしいことはラブホテルの前に差し掛かった時に起こりました。

ラブホテルの敷地内から何か、黒い影が出てきたのです。
それは小さく、まあ小さいと云っても中型犬くらいはありました。

僕は(なんだ?)と思い停止しました。
黒い影も停止しています。

しばらくの間夜闇の静寂の中、僕と黒い影との間には緊張とよりいっそうの静寂の時が流れました。
僕がそう感じただけかも知れません。

互いに相手の出方を窺い、これから起こる恐怖、嵐の前の静けさとでも例えられましょうか。(こんなことしてたら遅刻する)

僕は黒い影の動きに注意しながら、ゆっくりと動き出しました。

すると、黒い影がこちらに移動してきます。(げ!何よ!こっちくんな!)

「ワフッ」

黒い影が吠えました。

そして僕は全てを悟りました。
その黒い影は、野良犬だったのです。

ちなみに僕は小さい時から追い掛けられたり、吠えられたり、犬・・・特に野良犬には余り良い思い出がありません。

嫌な予感がしました。

そして予感は的中・・・犬が走ってきます。

戦慄が走り、ペダルを漕ぐ足に力を入れ一気にスピードを上げました。

「ワンワンワンワン!」

偉い勢いで追って来ました。
後方からガルッとかガフッとか聞こえてきます。

その時、ふと気付いた事・・・。
僕はウィンナー工場で働いている・・・。
作業着と靴にはおいしそうな肉の汁、かほりが染み付いている・・・。

俺、もしや餌?

その時、ふと違和感を覚え後ろを振り返る。
すると驚愕の真事実。

「さ、さ!!!」

僕は思わずそう、悲鳴を上げるような声でそう叫んだことを覚えています。

追っ手は三匹いました。

これはとてもリアルハンティングだと思い、捕まったら食われると思いました。

だって三匹の、まさに「飢えた獣」と云った感じのワンワンワンとかガフッとかガルッと三重奏が流れてきます。

更にスピードを上げた時、気付いたことがありました。

僕は長めのコートをはおっていたんです。
確かダッフル。
職場用に。

それが誤りだったのかも知れません。

スピードを上げれば上げるほど裾が後方になびき、三匹の飢えた狼の親戚の牙にかかりそうなんです。

「うおああああああ!」

と悲鳴を上げながら逃げます、そりゃ逃げます。

絶望を加速させるケルベロスの三重奏、コートの長さと云う誤り、誰も助けてくれない夜闇の孤独。

そして更なる絶望が待っていました。

目の前に右への直角カーブが現れたのです。

道幅は車の通れない、車が軽ならばその半分くらい。

この最大スピードで曲がれるのか!?
転んだりぶつかったら死が待っているぞ・・・いや!
絶対に曲がらなければならない!

火事場の馬鹿力とでも良いましょうか、人間本当に死の危機が迫った瞬間って覚醒するんですかね。

カーブの瞬間、僕の傾いた角度はたぶん45度以下。

狭い道、出しうる最高速度、購入時から何のメンテもしていない自転車の擦り減りまくっているであろう二年物タイヤ。
今考えるとよくもまあ悪条件が重なっている上で、もう二度と出来ないであろう・・・あんな素晴らしいカーブを繰り出すことが出来たなんてほんとミラクル。

そして今度は左直角カーブ。

成功。

自転車置き場まで走らせ飛び下り自転車は鍵も掛けず、入り口までダッシュ。

いや、ふと気付いたら犬はもう追って来ていなかったんですけれど、何回か遠くから吠える声が聞こえました。

野生の恐怖と人間の底力を知った夜でした。

ちなみに次の日もう怖くて、あの辺りに近づきたくなかったので辞めました。