健康祈願にご利益がある某寺では、願掛けとして池に川魚を放すことが行われていた。

目の悪い人が「良くなるように」と願を掛けて池に放すと、いつの間にか魚は片目になっており、その人の目は良くなっているという伝えである。

言い伝えでは自然と片目になっているとされているが、故意に片目を潰してから放していたとする説もある。

この場合、川魚が神や仏教の天部への捧げ物としての役割を担っているのだが、捧げ物として供された動物は片目や方足だったり、体の一部が欠損しているケースが多く認められている。

古代の社会では、目を潰されたり、足を切断されて自由を奪われた人間が神への捧げ物となっていたようで、それを伝える伝説や伝承が多く存在する。

時代が下ると残酷という理由で人間が捧げ物になる機会がぐんと減り、もっぱら動物が生贄の役割を担うことになった。

人の自由を奪う目的で行われていた暴力行為は動物が捧げ物になることで意味を変えて、片目もしくは片足は神への捧げ物(生贄)の印を意味することになったとする説がある。

人が生贄を捧げるのはその代償として自分の願いを神々に聞き入れてもらうというわけだが、願いを求めて祈る人間の心は今も昔も変わりはない。
そして、動物虐待事件の中には、願掛けや信仰、風習を守る目的で行われているケースも存在するようだ。

まれに足を切断されていたり、片目を奪われた動物が何匹も発見されてテレビで報道されることがあるが、愉しみ目的での犯行ではなく、生贄を作る目的で行われた可能性があるということだ。

水棲動物は環境因子によって自然と片目になったり片足の個体が多くなることもあるそうだが、同じ場所に何匹もそういった犬や猫が発見されるような場合には何かしらに呪術的な意図を持った人間の犯行である可能性が高く、とある動物虐待事件の現場では何者かが宗教的な儀式を行った痕跡があったそうだ。

信仰や古くからあるしきたり、風習を厳格に守るために、決まった日に特定の動物を捧げるという行為は現在も行われているそうで、世間の認知が低いために異常者による虐待事件として扱われているだけという話である。