俺が若い頃の話なんだけど、腰椎の手術のために大学病院の整形外科に3ヶ月ほど入院した。
検査をして手術し、寝たきりの状態が1ヶ月くらいあって、回復が進むにつれて、喫煙者だった俺は煙草が吸いたくてしょうがなかった。
やっと固定の期間が過ぎてリハビリをするようになると、病院のロビーに行ってやっと煙草を吸うことができるようになった。
当時は今のように院内全部禁煙というわけではなかったんだな。

で、入院が長引くにつれて夜眠れなくなった。
それで、6人部屋だったけど毎夜遅くまでイヤホーンでラジオの深夜放送を聞いていた。
その夜もそうしていて、2時過ぎ頃一服してから寝ようと思って病室をそっと抜け出した。
整形はそうでもないが、大きな病院なので内科の階では毎日のように死者が出ているようだったけど、病院の夜は看護室は明かりがついていて宿直の医師や看護師さんがいるし、俺のように眠れずに病院内をうろついている入院患者もけっこういて、怖いと思ったことはなかった。

エレベーターで1階のロービーまで降りて、喫煙所で煙草を吸っていると救急の待合室が見える。
指定病院なので、こんな時間でも救急の待合室には赤ちゃんを抱いた若い母親などが十人くらいいる。
煙草を吸いおえ、自動販売機で缶コーヒーを買って、病室に戻ろうとしてエレベーターまでの廊下を歩いていると、ふっと俺の前2mくらいのところに車いすの婆さんがいる。
間違いなく何もなかったのに突然目の前に現れたという感じ。
縮れた白髪の薄くなった頭がゆらゆらと前後に揺れている。

こんな婆さんは普通は介護の人がついているもんだけど、一人で車いすに乗って進んでいる。
しかも車いすのタイヤに手が置かれていない。
その後ろ姿を見ていると背筋がぞくぞくっとして、これはこの“世の人じゃないんじゃないか”と思った。

俺はその場に立ちどまって、車いすのものがいくのをやりすごそうとした。
そしたら車いすも俺の様子がわかるかのようにぴたりと止まって、何ともいやーな空気が流れた。
俺は後ずさろうとしたけど体が硬直したように動かない。
前後に小刻みに動いていた婆さんの頭の揺れが大きくなって、俺のほうを向いてがくんと倒れた。

首の骨が折れたのでなければありえないような動きで、俺はもろに婆さんの顔を見てしまった。
しわだらけの顔は真っ白で、両目のまぶたが赤い。
逆さまの頭で俺のほうを見すえて、婆さんは「・・・連れていっておくれよ・・・」と言った。

俺はうわっと思ったがやっぱり体が動かない。
固まっていたら、一人の女の人がエレベーターを出てきびきびした足どりでこっちに歩いてくる。
30代前半くらいで、白衣は着ているもののこの病院の看護師の制服ではないので女医さんかもしれない。
その人は車いすの正面にくると婆さんの肩に手を置いて、もう片方の手でゆっくり婆さんの頭を起こした。

そして俺のほうを見て目配せをすると、「大丈夫ですよ」と囁いた。
俺に言ったのか婆さんに言ったのかわからなかった。

すると婆さんが動物のような速い動きでその人の腕に噛みついた。
その人はちょっと驚いたような顔をしたものの、噛みつかれた腕はそのままにして、もう一方の手で白衣のポケットからすごく長い数珠を取り出して、婆さんの頭の上で何度も振った。
すると婆さんの姿が何というかぼんやり薄くなったように見えた。

女の人は噛まれた腕をそっとはずすと、俺に向かって「病室に戻りなさい、こんな時間に出歩いてたらだめでしょう」と。
そう強い口調で言うと、くったりと頭を垂れた婆さんの車いすを押して廊下をまっすぐ進んでいった。

俺はエレベーターで病室まで戻って今見たものは何だろうと考えていたが、いつの間にか眠ってしまった。

次の朝、この病室担当の若い看護師さんが体温を計りにきたときにこの話をすると、「・・・珍しいものを見たわね、それは◯◯さんでしょう。この病院に夜だけ来てもらってる方なの。・・・他の患者さんにはこの話はしないでね」と言われた。
それ以上の詳しい話はしてくれなかった。

それ以後、退院するまで夜中に出歩くのはやめた。
それにしても、幽霊だとしても車いすも幽霊になるものなのかいまだに不思議。