先輩の話。

一人で夏山を縦走していた時のこと。
踏み分け道を外れた辺りから、「おーい」と呼ぶ声がした。
誰か怪我でもしたのかと思い、「どうしましたー?」と返しながら声に近づく。
返事がないことを訝りながら進むうち、開けた場所に出た。

誰もいない。

大きな灰色の石が一つ、広場の真ん中にポツンとあるだけだ。
奇妙なことに石の表面には、破れかけた御札が何枚も貼られてある。
声はここらから聞こえたはずだけど・・・。
辺りを見回していると、突然大声が響いた。

「おーいっ!」

間違いなく、目の前の大石からその声は発せられていた。
くるりと踵を返すと、道まで一目散に駆け戻ったそうだ。

また別の先輩の話。

一人で山奥に籠もっていた時のこと。
そろそろ寝るかと、焚き火を落とす準備をしていると、突然声が掛けられた。
「おーい」樹上から誰かが呼んでいる。

こんな場所でこんな時間に、一体誰だ?
顔を上げたが、明かりの届く範囲には誰の姿も見当たらない。

と次の瞬間、気が付いてしまった。

かなり離れた場所の木々の影、それよりもっと高い位置で、緑に輝く二つの点。
非常に大きな何かが、ずうっと上の方から、彼を静かに見下ろしていた。

腰が抜けた。
身動ぎ一つ出来ないまま、震える視線を足下に向ける。
どれくらい経っただろうか。再び顔を上げると、いつの間にか、緑光は見えなくなっていた。
その後はもう一睡も出来ず、夜が明けるや一目散に下山したのだそうだ。

仕事仲間の話。

山奥の現場でポンプを調整していると、どこからか「おーい」と呼び掛けられた。
顔を上げて周囲を見たが、彼以外に誰もいない。
尚も繰り返す呼び掛けに「誰か呼んだかー?」と声を張り上げた。

次の瞬間、激痛が彼を襲った。

手首が焼けるように熱い!

腕時計が白熱したのだと頭が理解する前に、それを剥ぎ取って投げ捨てていた。
地に落ちた腕時計はジュッ!と音を立て、微かに陽炎を発していたらしい。

気が付くと、傍らの工具箱が飴のように変形して柔らかくなっていた。
金気の工具類が、軒並み手で触れないほどの高温に達していたためだった。
気が付くと、声は聞こえなくなっていた。

「でもその日はずっとね、金属に手を触れるのが怖かったよ。いや、声と熱が関係あるのかはわからないけどな」

左手首に付いた腕時計大の火傷を見せてくれながら、彼はこの話をしてくれた。