甘楽郡や多野郡、或いは本庄、熊谷などには歓喜天を祀る家がある。

以前は両毛から埼玉にかけて歓喜天を祀る寺院が多かったが、廃仏毀釈の折に宗像神社に変えられた。
寺もある(勿論由緒縁起などデタラメで、宗像の像が象、即ち歓喜天を意味している)

なぜ、関東一円に歓喜天信仰が広まったか?
幕藩時代から現世利益の祈祷を信じる風潮はあり、それは次第に寺院に拠る祈願から、密かな家の祭祀へと熱狂していく風潮が現れたからだ。

しかし歓喜天像を油浴するなど、普通の祈祷としては異様で(もっと異様なのは伎芸天のある祈祷だが)現世利益という祈祷の真様は、他者の運を引き寄せて家計を増進する方法とされて、一種の邪法・魔法の類と思われるようになった

一般には三隣亡の日に他人に物を振る舞うとか、その日の深夜に他人の土地に餅を埋めるなどして、他人の財運がこちらに来るようにと歓喜天に祈るというものだったため、それを知った人々から歓喜天を祀る者は人から財を奪う好からぬ者として、村社会では忌避される存在であった。

上野村黒澤である者が名主の家に呼ばれた。
上がり框に穴あき銭が釘で打ち付けられており、座敷の奥には仏様が祀られており、油が滲んでいたという。

お茶を出す前に何やら湯飲みに話しかけていたので、これは怪しい神を祀っているのではと思い、帰ってからこれを周囲に話すと、あの家は三隣亡を祀って大きくなったのだと聴かされた。

三隣亡を祀る家は一代限りだけともいうし、三隣亡の術を避けるに庚申様(猿田彦、青面金剛)や焙烙に鐘馗様を祀る呪いをする。