とある登山好きの友人から聞いた話。

彼は若い時から登山が趣味で、日本各地の山々を標高の高低に関わらずあちこち登り歩いていた。

当然いくども危ない目には遭ったらしいが、その中でもこれはとびきりだ、と彼は少しだけもったいぶった。

とある、北のほうの山に登った時のこと。
険しい山ではなかったので、日帰りのつもりで大した装備はしていなかった。

しかし舐めていたつもりはなかったのだが、下山途中で足を滑らせて痛めてしまい、動けなくなったという。
あたりは夕方の気配が立ち始め、気温もどんどん下がっていく。
足の痛みは増し、座っているだけでも体力は削られていった。

あたりが薄闇に覆われる頃、何かが彼の元に近づくような、枯葉を踏む足音が聞こえて来た。

この上に野生動物か・・・。
彼は近づいてくる何かを刺激しないよう、目を瞑り息を潜めた。

足音は彼の目の前で止まった。
舐め回すような視線を感じる。
しかし不思議なことに、獣の吐息も匂いも感じなかった。
恐る恐る目を開けて、彼は仰天した。

目の前にいたのは、十にも満たないような少女だったのだ。
おかっぱに赤い着物という、時代と場所にそぐわない格好ではあったが、それは明らかに人間に見えた。

声も出ない彼を無視し、彼女はジロジロと無遠慮に彼を検分していた。
そしてしばらくすると、ため息をついて首を横に振った。

彼女:「こいつはだめだ」

そう言うと彼女は、薄闇に溶けていった。
と、思うと、またすぐに現れた。
手には、あちこちが欠けた湯呑みを持っている。
それを、彼の方にグッと押しやった。

飲めということか?
彼が湯飲みを受け取ると、薄闇の中でも、それが薄黄色の透明な液体だということがわかった。

独特の香りがする。
なんだかよくわからない者からもらったなんだかよくわからない物だが、喉がカラカラだった彼にはありがたかった。
色も匂いも全く気にならず、一気に流し込んだという。
まさに甘露ともいうべき味が、喉を伝い落ちていった。

礼を言おうと顔を上げると、そこにはもう少女の姿はなく、持っていたはずの湯飲みも、いつの間にか消えていた。

不思議なことに、しばらくすると体力が回復してくるのがわかった。
足の痛みも和らぎ、これなら下山できそうだと、彼は慌てて立ち上がった。
そして様々な疑問はさておき、山を降りたのだという。

次の日、足の痛みのため病院に行くと、脛にヒビが入っていた。
医者から、こんな状態でよく歩けたなと呆れられたそうだ。

医者:「あの時の怪我の回復は、俺の中での最短記録だよ。きっと、山の神様が助けてくれたんだろうな」

彼は笑ってそう言った。
不思議な話に訊きたいことは多々あったが、私が一番気になったのは、少女が彼に渡したという飲み物についてだ。

色と香りの話を聞くと、まるでそれは、と思い当たるものがあったのだ。

私の考えていることがわかったのだろう、彼はみなまで言うなと苦笑した。

しかし、「いやでもあの時、団子を出されたんじゃなくて、本当に良かった。あの状況じゃ、きっと食っちまってただろうからな」と、自分から言ってまた笑った。