とある知人に聞いた話。

彼は、山奥の寺の若き住職なのだが、彼が子供の頃の話だ。

今でこそ、寺まで真っ直ぐ続く綺麗な舗装道路ができたが、一昔前は、コンクリート舗装の離合もできないような細い山道が、小学校時代の彼のいつもの帰り道だった。

学校を出た時には数人いた友達は、一人減り二人減り、家まで残り三キロの地点で彼は早くも一人きりになってしまう。
特にそれを苦に思ったことはないそうだが、一人きりの長い帰り道は、とにかく退屈だったという。

ある日のこと。
友達と別れてしばらく歩いていると、ふと、少し前に一匹の亀がいるのに気がついた。

亀は、亀らしいスピードでのそのそと、彼と同じ方向に歩いている。
あっという間に追いつき、追い越した。

デケー亀。
少し興味はそそられたものの、小さな命を大切にと祖父と父に厳しく躾けられていた彼は、ちょっかいを出すこともなく亀をやり過ごした。

次の日も亀を見かけた。
亀はどうやら、よく川で見かけるイシガメのようだったが、見たこともないほど大きく、甲羅には苔がみっしりと生えていた。

次の日も次の日も、亀は彼の前に姿を現した。
同じ場所でではなく、いつも昨日より進んだ場所で。
確実に、亀は歩みを進めているようだった。

同じ方向を目指すもの同士、段々仲間意識が芽生えてきた。

ある日、誰も周りにいないことを確認して、とうとう彼は亀に話しかけた。

知人:「おい。おまえ、どこ行くんだ?」
「・・・・・・」

当然亀は答えない。

知人:「もしかして、俺んちの寺に行くのか?」
「・・・・・・」

やはり亀は答えなかったが、まるで彼の言葉がわかったかのように、歩みを止めて彼を振り向いた。
そんな亀の小さな動きを、彼は是と受け取った。

スゲー!俺、亀と喋れるじゃん!

知人:「俺んち行くんなら、一緒に行こうぜ。連れてってやるよ」

彼は、そう言って亀に手を差し伸べる。
しかしその手をまるで振り払うかのように、亀は彼の中指にパクリと噛み付いた。

知人:「うわ!」

亀に歯は無いため、痛くはない。
しかし、驚いて指を引っ込めた拍子に、彼はしたたかに尻餅をついてしまった。

なんだよ、もう!

怒りと恥ずかしさで、彼は鼻息荒く家路を急いだ。

家に帰り着いてすぐ、彼は本堂にいた祖父に今日の出来事をまくし立てた。
祖父はニコニコとしながら彼の話を聞いていたが、話が終わると「まぁ怒るな怒るな」と彼をなだめた。

祖父:「その亀はな、何もお前の好意を無下にしたわけではない。そうせずにはおれぬ理由があったのよ」
知人:「理由?」

祖父:「おうよ。亀は万年というがな、長い年月生きた亀は、仏の教えを乞おうとこの寺を目指す。それも修行だから、途中で誰かの手を借りたら台無しになってしまうのよ。それで、思わずお前の手を振り払ってしまったのだ」
知人:「・・・・・・」

彼は憮然とした。
亀に本気で話しかけた彼だが、昔話を鵜呑みにするほど子供ではない、と思ったのだ。

その後、帰り道で亀を見かけることはなかった。
やはり、祖父の言ったことは嘘なのだ。
そう、彼が亀のことなど忘れかけたある日。
土曜日でいつもより早く帰宅すると、本堂に祖父の客が来ているようだった。
何やら楽しげに談笑する声が聞こえる。

ヒョイと覗くと、祖父と話をしていたのは、薄汚れた黄土色の着物を着た老人だった。
座っていても腰が曲がり、後ろ姿はとても小さく丸まっている。
しかし、祖父と笑い合う声にはハリがあった。

「おや」

客が彼に気がついた。
痩せて細長く見える首をさらに伸ばして彼を見やり、ニコリと笑った。

客:「先日は、すまんかったなぁ。あんたの心遣いは嬉しかったが、ついな」

なんの話かと、彼は首をかしげた。
目の前の老人には、今まで会った記憶はない。
そんな彼の様子を見て、祖父は「すまんなぁ。まだまだ修行がたりんでな」と、なぜか客に詫びた。

その晩、客が土産にくれたサワガニが、天ぷらとなって彼の食卓を彩った。
客の名前を聞いて、彼は「あ!」と思い当たったという。

知人:「その客人の名前はね、亀井さんと言ったんですよ」

彼はにこやかに笑いながらそう言った。

私:「お爺様の話にあった、修行中の亀ですか?」

私もつられて笑いながら話に乗った。

知人:「御仏の前では、人も動物ももちろん亀も、等しく一つの尊い命ですからね。ない話ではありません」

真面目な顔を作り住職らしく言った後、「まぁ、祖父に担がれただけかもしれませんがね」と、彼はもう一度相好を崩した。